神様はいないし神様に祈るのは何か物事がダメになってしまった時に神様なんていないんだ、と、神様が存在しないことのせいにするためなんだろうなあ。もしいたとしてもそれは全知全能で全部の人間の運命を決めてるなんてことはなくて、なんとなく要所要所で災害を起こしてみたり奇跡みたいなことを起こしてみたりするだけで、それで人が死んだり蘇ったりしてもそれは神様の起こした事象の結果であって運命とかもないんだろうなあ。だから人が死んだからってそれに意味はないしそれぞれが勝手に意味を持たせてるだけで、は〜ぁなんも意味ねえ。

みたいなことを考えながら煙草を買いに行ったらいつも行ってる煙草屋が忌中で休みだった。いつもライターや飴やガムをくれて、「髭のあるのとないのとじゃあ全然違くて誰だかわかんないね」って言いながら僕の吸う煙草を2個出してくれてた婆さんが死んだっぽい。

婆さん81歳だったんですね。

2年ちょっと、週に4回くらい顔を合わせてた年齢どころか名前も知らない婆さんが死んで、何かの節目になるのかなと思ったけど僕の中にはまだその死に意味を持たせる土壌はできてなかったようで「今までありがとうね、ゆっくり休んでね」という気持ちになっただけだった。

必ずしも人の死に意味を持たせる必要はないし「今までありがとうね、ゆっくり休んでね」の気持ちで今は十分だよなと思うけど、このことをもし何かの拍子に思い出すことがあれば、それが意味を持つようになるときだといいなと思います。

ここではないどこかに行きたい(=何かから逃げたい)気持ちに任せて、何から逃げてるのかもわからないまま上京してきて二年経った。
ここではないどこかに来て分かったのは何者でもない自分から逃げてたということで、二年経っても相変わらず僕は何者でもないしここではないどこかはどこでもなくて、何者でもない上に自分がどこに立っているかもよく分からない宙ぶらりんな感じになってる。学生という肩書きがあった時は、学生ですと社会的な立場を名乗れば学生になれていたけど、それは借り物でしかなくて、学生が終わった今は僕って何ですか状態。こんなの聞いてない。
じたばたともがいてまたここではないどこかに逃げる為に毎日外に出ているけど逃げているのは自分自身からなのでどこに行っても逃げ場はないしどこに行ってもそこはどこにもなり得ないので馬鹿だから考えを言語化してるうちに同じ言葉を繰り返して話したいことがぐるぐる回りながらガンガン肥大化していきます。
今日出かけるときに同じタイミングで電車に乗った女の子が偶然帰りも同じ電車でした。ここから何か面白いことが起こって僕を何者かにしてどこかへ連れてってくれたらいいのに、と思うけど今日も帰るべき家に帰って宙ぶらりんなまま布団に入って気分にまで働くような重力によって固いマットレスに沈んでいくのでした。

久しぶりに昼間バイトが休みで何もなかったから長い夢を見た。
どこかに行くために御茶ノ水にいた。中央線に乗ると自分が立ったのと反対側の手すりの自分の顔より少し高い位置にカーブミラーのようなものがついていて、外は秋の夕方なのにそのカーブミラーのようなものの中には夜と街灯と桜がうつっていた。違う窓なのかなと思っていたら斜め前に座ってるでかいおじさんの膝の上に座っているリクスーをめちゃくちゃエロく着崩してお団子にしてる綺麗なお姉さんから「あっち側空いてるじゃん」って言われてなんのこっちゃと思っていると「あっち側、チラチラ見てるし、あのエアコンの下がいいんでしょ?空いてるんだからそっち行きなよ」とばかでかいおじさんの太ももを撫で回しながら言われた。怖くなって電車を降りて乗り換えたら三鷹にいることに気づいて中央区に行かなきゃと思って電車を見回すと会ったことはないけど顔は知ってるインターネットの人がいてびっくりした。声を掛けようか迷いながらフラフラと近づいたら足を蹴ってしまった。すいませんと謝ると許してくれたけれど、なんだか気恥ずかしくなって電車降りた。
何駅か分からないけれど灰色で大きくてうねうねとしたオブジェがたくさんある広場に出た。曇りの昼間になっていた。猿回しのお姉さんが初めての演技?で全然ダメダメで泣いているのを猿たちに慰められていた。それを横目に歩いていると、交番横の腰くらいの高さの塀にジャージ姿のお兄さんが自転車で突っ込んできて塀にぶつかった反動を利用して自転車のスタンドを下ろして一回転しながら塀のこちら側に来て「おはようございます!」と言いながら交番に入っていった。歩いていると公園についた。公園には彼女がいて、すべり台や雲梯が一緒くたになっている遊具の周りをぐるぐる回りながら追いかけっこしたり隠れたり急に飛び出してびっくりさせたりした。
ケラケラ笑って、起きておしまい。

まだ本当に小さい頃、物事に自分だけの規則とも言えないこじつけみたいな規則性を見つけてそれをどんどん繋げていくのが好きだった気がする。
それは思春期とかいう頭が痛くなるような頃まで続いて、その頃は「なんてことない平凡な毎日に無理矢理こじつけみたいな意味付けをしてさも意味のあるようなドラマチックなような日々にする」というものに少し変わっていた。
でも今はもう何か物事に意味だったり理由だったりそういうのをこじつけるのはしんどいなって思って、しなくなった。21年間積み重ね続けてきた規則も意味も理由もさすがに重たくなってしまって、そういうのがあるとただの記憶もやたらドラマチックな思い出みたいになっちゃうし嘘の思い出に浸ってる時に本当の思い出なんかに流れ着いちゃうと、途端に足元がグラついて自分がどこにいるんだか分かんなくなってなんかダメだなって思った。なんか、わかんないけど。高卒だし。
恋人がよく行く服屋に地元にいた頃の元恋人が勤め始めたことにだってきっと意味も理由もなくて、それを感傷スイッチにするのはすごく馬鹿で下品なことだから、なんか、わかんないけど、とにかく、あーーー!わかんねー!あーー!って思ってて、それを誰かに聞いてほしいんだよって思ってるんだよ私は。

またやってしまった。
自分の馬鹿だったり辛かったり悲しかったり苦しかったりダサかったりする話を笑い話として人に話すのがやめられない。正面からバカにされたり説教されたりすることにビビって逃げてしまう。笑って聞いてもらって、その場で消化しきった気持ちになって、あとから消化しきれなかったトウモロコシがそのまんまうんこに混ざってるのを見つけてしまうみたいな状況になる。うんこはだいたい1人でするもので、そういう消化しきれなかった気持ちを見つけるときもだいたい1人だ。今。今見つけてしまった。
すごくバカなことをして恥ずかしくてそれを話のタネにして、別のバカな女の子の話を聞いてケラケラ笑ったけれど、私が笑ったバカな女の子と私との違いなんてなくて、多分頭空っぽのくせしてちっぽけなプライドに縋って頭でっかちに振舞って、後で恥ずかしく思うんだ。私がケラケラ笑ったバカな女の子が恥ずかしく思うのはきっともっと何年後かの話で、私はそれが短いスパンできて、それだけ。その子より少し歳をとってるだけで、この場合歳をとってることは何も偉いことじゃなくて、何もしてなくても勝手に歳はとるのだから、歳をとって同じようにバカな分だけ私の方がバカで恥ずかしい。
何事にも流されないで大切な人とかものとか思い出とかをきちんと大切にできてスイスイと泳ぐように、飄々として生きていきたいね。

月曜日は8時半くらいに起きて恋人を駅まで送って寝たり課題をしたりして13時から16時半までパン屋で働いて17時から学校に行って21時半に帰ってきてご飯を食べて寝る
火曜日から金曜日までは7時に起きて8時から15時までお惣菜屋さんで働いて16時から学校に行って21時半に帰ってきてご飯を食べて寝る
土曜日は10時くらいに起きて寝たり起きたりしてシャワーを浴びて13時から20時半までパン屋で働いて帰ってきてご飯を食べてお風呂に入って課題をやって寝たり寝なかったりする
日曜日は7時に起きて8時から15時までお惣菜屋さんで働いたり働かないで出かけたりして夕方とか夜に帰ってきてご飯を食べてお風呂に入って課題をやって寝たり寝なかったりする
毎日同じ分だけ時間が過ぎて何も起こってなくて何もしてなくて気づけば秋になってこのまま生きて死ぬ

全部投げ出してどこかに逃げてしまいたいと思うような事柄はあるけれど全部投げ出して逃げる程の問題じゃないよなと思い直して酒を飲んで一瞬だけ忘れて明日の朝八時にはバイト先で後悔をする。
彼女が男の人と出かけてそのままバイトに行き、入れ違いのようにバイトから帰ってきた僕は電球の切れたトイレでおしっこをしながら彼女の名前を呼びました。
死にたいと言う彼女は僕が毎日どれくらい死にたいと思ってるのか知ってるのだろうか、知らないでいてほしいな、僕は彼女の死にたいがどれほどのものか理解できてないし、一方的に知られるのはなんだかとても嫌なので。そんなの不公平だな、と思います。
彼女に限った話でなく、他人のことを理解なんてできないし他人から理解もされてないと思うのだけど、なんとなくぼんやりとわかるな〜ってことはあって、他人もきっと僕に対してそういうのがあって、そこで止まっているのが一番いい距離感なんでしょうね。
他人もきっと僕に対してそういうのがあって、というのは傲慢ですね。何を根拠に自分が他人から見られてると思ってるんでしょうね。皆さんは誰も僕を見てないし知らないと思います。
皆さん。