毎日一回は楽しいって言ってる。普段あまり考えてものを喋る人間ではなくほぼ無意識、反射で会話をしている(平たく言えば適当に喋ってる)んだけど楽しいは誰と喋ってても必ず言ってる。考えたくもないけどあんまりにも頻出するそれはまるで自分に言い聞かせてるみたいで、反射で出たそれに気付く度にゾッとしている。

楽しいのは決して嘘じゃなくて、自分の好きな仕事をしていて、しんどいこともままあれど職場の人間関係も決して悪くはなく、一日四人程度の他人とそれぞれ二時間ずつ会話をして、家に帰れば彼女と会話をして、休みの日は一人のことが多いけれどたまに友達と遊んで。十分楽しいと思う。十分と思ってしまっている。これで良しとしているのが嫌というわけではない。何でも求めすぎは良くないということを理解できる程度には大人になった。ただ何でも求めない限りは、自分でそれを得ようとしない限りは手に入らないということも同じくらい理解している。

今よりもっとずっと楽しくなりたいけれど今より楽しくなるための労力をお金を時間を使うことを怖がってめんどくさがって楽しいと言っている。ような気がする。

今が過去になっても俺はずっと今のまま平坦な生活で、それはきっと両親が望むもので俺が以前望んでいたもので、きっとそこで幸せなのだろうけど、できることなら余暇に生まれる一瞬の楽しいだけじゃなくてもっと毎日周囲の人間に(主に彼女なのだけど)嫌な思いをさせない程度に楽しくありたい。

自分が楽しむことで彼女が嫌がったり、一緒に楽しめないようなのであれば付き合い方を考えた方が良いというアドバイスをたまにもらうけどそれはまあ俺が楽しい時の彼女に対する配慮が欠けてしまうことが原因なことがほとんどなのでまあ、それは、まあ。

ほんとうはいっしょにたのしいのがいちばんなんだけど、どんだけ趣味や価値観が合おうとも一つ二つ考え方の相違はありますね、人間だから。こういうことをより考えていかなくちゃいけないのも今より楽しいから目をそらす要因の一つではあるけどどうにもこうにも。

ハサミ12万帰省費用3万ご祝儀3万

完全に日記の書き方を忘れてますね。忘れてますねっていうか。忘れました、はい。こういう口調?人に話しかけてる感じで書くのが今は楽っぽいのでそうします。改行も句読点もいいや。人に話しかけてるようには書いてくけど誰か見てんの?見てますよとか見ましたよとかの報告はいらないからただ誰か見ていてくれって勝手に祈らせといてくれ。五年前に辞めた学校に置きっぱなしにしてきた楽器があるか確認するために当時住んでいた街に行ったんですよ。さすがに捨てられてるか誰か勝手に持ってってるでしょと思って、一応当時の学校の数少ない友人の二人に聞いたけど二人とも持ってないしどこにあるかはわからんなあとのこと。まずこの二人に関してで、先に友人って書いたけどそもそも一年やそこらで辞めた奴なんて普通に友人カウントしにくくないですか?そんなそいつのこと知らんし。連絡自体も五年ぶりだし。僕だったら一通りウケた後に一年で学校辞めた陰キャから五年ぶりに連絡きたわwみたいに人に話しますけどね。返信とかもめっちゃ雑になる気がする。だからめちゃくちゃ怖かったんですよ。アーーーーやだなーーー適当にあしらわれてもしゃあなし、とりあえず明日連絡してみよ…ハァ…で一日置くくらいビビって連絡したんです。「久しぶり!覚えてる?一年で辞めた佐藤だよ笑 俺が使ってたシンセってその後どうなったかわかる?」みたいな感じで。秒で来ましたね返信。しかもすごいフランク。言っても五年のブランクあるんですよ。しかもすごいフランクといっても五年のブランクちょっと踏めてますね。「久しぶり!覚えてるよ(^。^)俺は持ってないけどtが持ってるかも。それか学校じゃないかな?」みたいな。このtっていうのは僕が連絡したもう一人の奴なんですけど、彼に至っては仕事の休憩中に電話して来てくれて、すごいですね。人間って優しいんだなと思って、いかに自分が矮小な人間であるか、そんな彼らに相談も何もせず別れも告げず学校を辞めるということがどんだけ後ろ足で砂をかけるような失礼な真似であったかを痛感させられ喫煙所でめちゃくちゃえずきました。馬鹿だったなあと思います。ブン殴ってやりたいわね。そんでまあtも「俺持ってないよ〜学校にあるか処分されてるかも…最近どう?」みたいな話をしてね。じゃあとりあえず学校に聞いてみようということで学校に連絡したら「それがあるかの確認は俺らじゃできないから自分で見に来ていいよ」とのことで、行ってきたんです。行きの時点で五年ぶりの電車からの景色でめちゃくちゃしんどくなりましたね。ニュータウンとかを通るんですけど、当時はこの窓一つ一つの明かりにそれぞれの暮らしがあって…みたいなことを考えてしんどい気持ちになってて、今回は当時の自分の感情の揺らぎみたいなものを思い出してしんどくなりました。駅から学校までは歩きだと一時間くらいかかるんですけど、五年で街がどらくらい変わってるのかを見たくて歩きました。昔も結構頻繁に歩いてたし。もう開発され済みのニュータウンはやっぱあんま変わらないもんですね。もう手のつけようがないんだろうし。馬鹿みたいな数のマンション群を抜けて昔の街道沿いに出ると急に東京の端っこ感が出るんですよ。僕は以前そこに住んでまして。ああどうせなら昔住んでたアパートも見てくかなと思って立ち寄ったら建て直されてましたね。訪問介護の事務所になってました。学校辞めて実家に戻る前日の晩になって初めて当たりが出た併設の自販機も無くなってて、アパートのすぐ隣にあった、深夜に中学生のヤンキーにパシられたセブンイレブンも別の訪問介護の事務所になっちゃってましたね。アーーーフーーーーンそうなんだヘエーと思って。寂しいとは少し違う、ありきたりですけど胸にポッカリと穴が空いたような感覚になりました。良い思い出なんて数える程もないはずなんですけどね。アパートから学校までこんなに遠かったっけ…と思いながら歩いてたら胸にポッカリ空いた穴のこともすっかり忘れました。学校のトイレの個室だけ携帯の電波入らないんですよ。そうだったそうだった(笑)って少し楽しくなって、その後部室にシンセなくてめちゃくちゃへこみました。街、大きくは変わらないけどやはり全く変わらないってことはないですね。今回に限って言えば、良し悪しは別として思い出が残ってる場所がことごとくなくなってて、ちょっとウケました。ただまあ僕は馬鹿なんで曲がり角一つ曲がる度にこの道ではこういうこと考えながらこの曲歌ったりしたなとかここ引越し初日に俺がアパートの場所すっかり忘れたせいで迷ってしまい親父がブチ切れながらヤバいスピード出してた通りだとか覚えてられるので、そういう記憶が掘り起こせたのは良かったです。記憶の中の街と今の街とのレイヤーを部分的に掘って記憶と今との間に見えるズレとズレに対する捉え方が現在の自分の立ち位置なのかなと思いました。当時の良い思い出のなさから今でもその土地をクソオブクソ土地だと思ってたんですけど、生活がクソオブクソだったから住んでる街も対してもそういうバイアスかかって見えてたのかなと思います。こんなクソな街に住んでるから俺はこんなクソになっちゃってんだよとか思ってた気がしますもん。環境、街が人を作ることもあるけど人が街を作りもするんやでと教えてあげたいですね。無理なので今の自分がそれを忘れないようにしたいところです。本当はなんかもっと色々感じたり考えたりしたんですけど専門卒の馬鹿なんでちょっと言語化無理ですね。終わり。

先週末、毎日通ってた道の途中にある大きくて古い家が取り壊されていた。

毎日毎日その家の前を歩いて、時々大きくて古い家だなあと思ったりした以外の思い出はない。その家の前で何かドラマチックなことも起こってないしただ毎日歩いたり自転車に乗ったりしながら通り過ぎただけの景色だ。壊される少し前から工事をする時特有の灰色のカバーをかけられていて、どこか大規模な補修工事でもするのかな?と思いながらも別に立ち止まりもせず見慣れないいつもと少し違う景色を横目に出かけたり家に帰ったりしていた。それが先週末の夜に通った時には工事をする時特有の灰色のカバーどころか家もなくなって更地になっていた。手品かよ。

無くなるなら無くなるよって教えておいてほしい。思い出はないけど3年間も毎日毎日朝夕と通りかかってきた仲なんだから。こっちだって、色々心の準備ってものがある。と言いつつも薄情なもので今日もいつも通りその道を通った時、一瞬その更地に元々何があったのか思い出せなかった。思い出せないことにビクッとしてから、必死になって大きくて古い家があったことを思い出したけど、たった一週間足らずのうちにその前のことを一瞬思い出せないほど更地に見慣れてしまうことなんてあっていいのかよ。

古いものとか思い出だとか、そういうものに固執してるってわけじゃないんだけど、たとえそんな大事じゃない記憶だったとしてもあんまり忘れたくないし、みんな忘れて「あれ〜あそこなんだったっけ〜〜」みたいになるのも寂しいから、忘れたくない景色だとか、人に見せたいものだとか、そういうの関係なく今後はなんでもかんでもバシバシ写真撮ってこうかなと思いました。

あれいいなこれいいなあの人いいなこの人いいなで物とか人の背中ばっか追いかけてきて23歳になったけど、いよいよ周りは知らないものだらけで追いかけてきた物も人も見失いました。ここらで自分で進む方向決めてかなくちゃな〜と思うけどどうしたものかね。って話をしてたら「お前の背中を追っかけたりその方向にヒントを見出してる人もいるんだからそこでいつまでも立ち止まってちゃだめだよ」って真剣に言われたのですけど、マジか〜と思う。こんなに道を外れてるのにな〜〜。とりあえずあれやってこれやってって常に提示され続けていたいけど、そればっかも嫌だし、本当にそんな人がいるのかも疑わしいけど背中追っかけてきてる人とか、そのうち僕の通る道の近くを通る人のために「ここ前も人が通りましたよ、道外れてるように見えるけどなんとか大丈夫ですよ」って教えられるための目印みたいなものを何らかの形で作れるような一年にするぞォ〜。するぞォ〜っていうか、自分が何やってんのかわかんなくてもそれが形を成すに連れてそういうものだったってわかるような感じで、その、そうやって?????いきたいですね?????????

出来上がったものを見て、これなんなんだ?ってなってる人たちも、きっとそれがそういう道標っていうか、後続の人たちに繋がっていくものなんだと思うんだよな。わかんないですけど。がんばりましょうね。

小岩に住み出してもうすぐ三年になる。学校もアルバイトも簡単なデートもこの町で済ませて、他の町で笑ったり泣いたり思い出ができても全部ここに帰結する。

東京下町特集なんてものがあってもあまり話題に上がることはない。都心からは遠いし、洒落たお店なんて両手の指で数え切れる程度だし、その数少ない洒落たお店や良い純喫茶は見向きもされず、町の人はみんな星乃珈琲やスタバに行くし、若者も少ないし、少し頭のおかしな人も多いし、治安だっていいとは言えない。糞みたいな町だ。糞みたいだけど嫌いになれない居心地の良さがあって、人には「糞みたいだけど良い町なんだよ、来てみてよ」って言う。誰も来ないけれど。都心からの微妙な遠さが、わざわざ行くほどでもないと思わせるのかなと思う。

僕がバイトをしていたパン屋も、そのパン屋でバンズを卸していたハンバーガー屋も、アボカドサンドが美味しい純喫茶も、店主がやたら距離の近いカレー屋も、トーストが美味しいジャズ喫茶も、600円でピザが持ち帰れるピザ屋も、老夫婦が手を繋いで行く銭湯も、昼間から老人たちが飲んでるモツ焼き屋も串焼き屋も、朝から晩まで家があるのかないのかわからない老人達が座ってる駅前も、フラフラと二人乗りしてる老人の自転車も、池田大作を馬鹿にした歌を歌いながら同じところを何往復もしているキチガイも、大きい声で電話をしている立ちんぼフィリピーナも、狭い道をガンダッシュしてる子供達も、春夏秋冬朝から晩まで全部良い江戸川も、24時間開いてるTSUTAYAも全部全部良いのに、何がどう良いのかを上手く伝えられないのがもどかしい。全部良いんだよ。

実家の周辺とは何もかもが違うのに懐かしい気持ちになって安心するし、ほぼ何もないと言ってもいいくらいの糞みたいな町だけど色んな人とかものが見られて、色んな気持ちになれる町で、好きな町です。

日記の下書きがすごい勢いで溜まってる。書いてる途中で違うことが書きたくなったり、これは今書くことじゃないやという気持ちになってばかりで、結局書き上げずに下書きにポイしてる。これも下書き行きだろうなと思いながら馬鹿みたいに寒い真っ暗な部屋でポチポチ文字を打っています。指がかじかんで打ち直してばかりなのも日記が書き上げられない理由の一つにしますね。夏の終わり頃くらいから書けてないけど。

それにしてもみんないなくなる。いなくなるというか、いるし連絡も取れるし会おうと思えば会える。リアルタイムで何してるかを知ることもできるし(SNSってすごくないですか?怖いくらいですね)問題は物理的な距離だけだ。僕は今地元を離れて東京に住んで2年強で、以前も1年だけ住んでいたから計約3年だ。3年もいれば多少友達だってできるし、同時期に上京した友達だっている。そういう、地元を離れて一緒にいる友達たちが最近どんどん地元に戻っていってしまう。それを責めることはできないしそんなつもりはさらさらないけれど、やはり寂しい。地元に戻っていってしまう友達たちそれぞれに理由はあるんだろうけど、一人でいるのが寂しいっていうのを結構聞きました。俺もお前がいなくなるの寂しいよ寂しかったんなら言ってよいっぱい遊んだじゃん東京楽しいじゃんもっといっぱい遊ぼうよって言いたいけど、まあなんか、寂しいと思った時に助けを求められる対象として僕は上がらなかったのかと思うとヤバい気持ちになりますね。ヤバいわ。多分そういうことじゃないとは思うけど、思わないようにしてるけど。ヤバいな〜という気持ちになった時には言ってくれよできることはなんでもするよと思うくらい友達たちのこと好きなのでやはりめちゃくちゃ寂しい。遊んだ回数が少なくたって喋って楽しけりゃもう大好きなので全員もっと俺を頼ってくれよ全然頼りないとは思うけれども。頼むよ。

東京が好きで東京に出て来て、東京楽しいな〜と思ってもっと好きになってたけど、友達たちがどんどん東京からいなくなっちゃうと、なんか、東京、あれ?ひょっとしてそんな楽しくない?ってなりますね。友達いない時でも楽しかった気がするけど、友達いた方が楽しかったし、それがなくなっちゃうと相対的に楽しくないような気がして来ちゃってね、こんなね、人がいないと無理なんです!みたいな人間じゃなかったと思うんですけど。寂しいわ。

下書きにならなそうでよかった、よかった?よかったのかな?わかんないけどまあ、はい。

じゃあ、ありがとう。またね。気をつけて帰ってね。

誰と会って何をしても帰り際に言う言葉がこれ。何に対するありがとうなのか分からなくてもありがとうと言って、次はないかもしれないなんてことをこれっぽっちも考えてないような顔をしてまたねって言う。気をつけて帰ってほしいはその都度本当に思ってる、と思う。無事に帰り着いてくれたら、少なくとも「また」の可能性が0になることはない。また会いたいとかもう会いたくないとかあまり考えてはなくて、残せる可能性は残しておきたくて「また」を使う。自分の為の「また」と多分相手を思っての「気をつけて」。今気をつけて帰ったって、明日になったら世界が終わってるかも、なんてことはなくても、僕か相手かどっちかが終わってるかもしれない。それでも、また。

またねを色んな人として色んな人と「また」を無くしてを繰り返して多分その都度色んな気持ちになってきたんだと思うけれどほとんど忘れた。出来事も気持ちも思い出せないことばっかりなのに、駅に消えてく人を見送ったり、自分が改札を通り抜けるその瞬間に、具体的な記憶や気持ちを伴わない感傷が押し寄せて泣きそうになる。また、と言う言葉を飴玉みたいに口の中で転がしながら色んなものを目に映しながら何も見ないで帰って、また色んなことを忘れて暮らして、誰でもいいから誰かに会いたくなって、誰でもいい誰かを選びたくなくて、誰にも会いたくなくなったりしても、誰かが遊んでくれて、じゃあ、ありがとう。またね。気をつけて帰ってね。